過去のCBA(労使協定)交渉の記録
現地2022年2月22日の段階で遅々として進まない2022年の新CBA更新ですが、ロックアウト日数が積み重なるほど、MLBファンとしては、情けなくなりますね。CBA(労使協定)の更新は過去も大いに揉めた経緯がありました。
確かに、今回の2022年から新CBAは構造を変えようとしているところもあります。時間がかかるのはわかるのですが、なんで12月2日から1月半ばまで交渉しなかったのか?と無交渉期間が長かったことは解せないですね。
では、過去の更新はどうだったのか?をかんたんに振り返ってみます。
マイナーチェンジだった直近3回
直近のCBA交渉はもうほとんど記憶にないほどの更新ぶりでした。2016年、カブスが108年ぶり3度目のワールドシリーズチャンプになった後に行われたものです。
その前の2回ももちろん変更点は出たものの、マイナーチェンジの類でした。よっていずれもシーズン終了後のその年にオーナー側、選手会側ともに合意に至りました。
- 5 years (2017-21):2016年12月14日に 最終合意
- 5 years (2012-16):2011年11月23日に最終合意
- 5 years (2007-11) :2006年12月7日にに最終合意
嵐のない更新。ただ、この長い無風期間が今回の更新に大きくしわ寄せしてきた背景もあると思います。この間に色々と中身が変わってきましたから。
危なかった2003年
実は結構危なかったのが、2003-06の更新でした。あわやストライキというところまで行った経緯がありましたが、野球ファンの流出を食い止めるという思いもあり、なんとか無事に更新を終えました。
- 4 years (2003-06): 2002年8月30日に最終合意
- ストライキ予定日の数時間前に選手とオーナー側が新CBAの予備的合意に到達。この合意は、野球界で初めてストライキを伴わないものであり、合意内容にはステロイドの無作為検査などが含まれることになりました。
ストライキの名残があった1997-2000
この更新は割とスムーズに行きました。詳細は下記です。その前が大変だったのです。
- 4 years (1997-2000), 2001 option
- 1996年11月6日 – オーナー側は18対12の投票で合意を拒否。
- 1996年11月27日 – オーナー側は26対4の投票で新しい基本合意を承認。
- 1997年3月14日 – オーナー側と選手会側が2000年シーズンまでの契約と2001年まで延長するオプションに正式合意。新CBAでは、1997年から1999年にかけて、レベニューシェアの大幅な引き上げ、給与の高い5チームへの贅沢税の賦課が規定される。
- 1998年10月28日 – クリントン大統領がカート・フラッド法に署名。野球の労働問題に対する反トラスト法適用除外を撤回。
ご存じ、ドロ沼のストライキ 1995-96 CBA
その前がもうドロ沼で、野球ファンが大いに離れていったストライキのあった時の更新です。時系列をかんたんにまとめました。
- 2 years (1995-96)
- 1994年8月12日 – 直近のCBAが1993年で失効。1994年からの新CBAが合意にいたらないままシーズンがスタート。そして、8月12日に選手がストライキを起こす。
- 1994年9月14日 – コミッショナー代理のバド・セリグがワールドシリーズなどのポストシーズンを含む1994年シーズンの残り試合の中止を発表。
- 1994年12月6日 – オーナー側の交渉責任者のリチャード・ラヴィッチが辞職。
- 1994年12月14日 – 連邦調停官が介入するも交渉が決裂。
- 1994年12月23日 – オーナー側がサラリーキャップ制を一方的に導入。
- 1995年1月5日 – オーナー側の一方的なルール導入の決定を受け、MLBPA(選手会)の理事のドナルド・フェーアが未契約の選手895人全員をFAとすることを宣言。
- 1995年1月13日 – オーナー側の執行委員会が代替選手の起用を承認(FA以外の選手でシーズンを戦って良いという無茶苦茶な承認)
- 1995年2月11日 – オーナー側がサラリーキャップ制度を撤回。さらに、失効はしていたが、1990年から1993年の旧CBAのいくつかの要素を一方的に撤廃。年俸調停、クラブと選手の個別交渉、FA規則の非共謀規定(クラブの談合のこと)など。
- 1995年3月27日 – National Labor Relations Board (全米労働関係委員会)が、オーナー側が従来のCBAの基本協定の規則を一方的に変更及び実施したことは、誠実義務違反に当たるとして連邦裁判所に提訴。
- 1995年4月2日 – 連邦判事のソニア・ソトマヨールが、失効した1990-1993年のCBAの条件を復活させる。具体的にはオーナー側が一方的に変更を加えた同CBAの条件の差し止め命令を発行。選手たちはストライキを終わらせる。新しいCBAの合意なしにシーズンがスタート。
- 1995年4月27日 – 144試合となった1995年シーズンが開幕。
そして1994年の悲劇として、ナ・リーグ東地区で74勝40敗とダントツの成績を上げていたモントリオール・エクスポスが挙げられます。ワールドシリーズ進出が幻となりました。そしてパドレスのトニー・グウィンは.394でシーズンを終えてしまい、結論が見られなくなったシーズンでもあります。
ロックアウトもあった1990-93 CBA
- 4 years (1990-93)
- 1988年~1990年 – 選手はコミッショナーのピーター・ユーバーロスと26クラブが共謀して1985、1986、1987年のシーズン後のFAの競争入札を制限したのは基本合意に違反したと告発(共謀I、II、III)。共謀だとわかりにくいですが、談合したとの訴えです。3件とも、オーナー側がCBAに違反したと裁定される。損害賠償額は合計1億ドル以上となる。
- 1990年3月18日 – 32日間のロックアウト(2月15日から3月20日)が発生。その後、オーナー側と選手会は、調停資格の拡大、最低年俸とオーナーの年金拠出額の年額の引き上げなどを労働協定に折込み合意。
- 1990年11月 – オーナー側は上記3つの談合事件すべてを解決。総額は$280M。損害を被った選手への分配方法は組合が決定した。
- この件に関し、コミッショナーのフェイ・ヴィンセントが後に述懐。オーナー側が談合事件による負債を返済するために、1993年にフロリダとコロラドへのエクスパンション・プランを承認したと書き記している。
それ以前も1968-69の更新から始まり、複数回更新されました。
1981年のストライキ
ストライキで言えば、1981年6月12日から7月31日まで50日間にわたるものがありました。その時のCBA更新に関してはこのような出来事がありました。なお、1981年のストライキはFA補償についての争点でした。
- 4 years (1980-83) / 4 years (1981-84)
- 1980年5月23日 – 81年のストライキを前に、実は選手たちは1980年4月1日から4月8日までスプリングトレーニング終盤に8日間にわたるストライキを実施。オーナーと選手はレギュラーシーズン中のストライキ実施予定日であった5月23日未明に4年間の暫定合意に達する。この合意により、FAの問題は翌シーズンに再開されることに。
- 1980年7月7日 – 選手たちが新協定を批准。
- 1981年2月21日 – 選手会執行部がストライキ期日を5月29日とすることを決議、後に期日を6月12日に延長。
- 1981年6月12日 – 選手たちがストライキ。
- 1981年7月31日 – 50日間のストライキの後、オーナーと選手がFAの補償問題を解決するための合意に達する。MLBは計712試合を中止し、1981年シーズンを前後半にスプリット。
- 1981年8月2日 – 選手会執行部が新CBAを全会一致で承認。
過去のストライキ、ロックアウト一覧
MLBの過去のストライキやロックアウトのログを記載しておきます。
【ストライキ】
- 1972
- 1980
- 1981
- 1985
- 1994-95
【ロックアウト】
- 1973
- 1976
- 1990
- 2021-22
お読みいただき、ありがとうございました。
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