まさしく「伝説」の超ハードスロー投手
訃報です。現地2020年4月24日にわかった情報です。伝説の左腕でアメリカ野球史上最も速いボールを投げたと言われるスティーブ・ダルコウスキー(Steve Dalkowski)が、現地2020年4月19日、コネチカット州のニュー・ブリテンの病院でお亡くなりになりました。享年80才。
死因は肺炎かどうかはきちんとした報道が出ておりませんが、新型コロナウィルスに感染してお亡くなりになりました。
スティーブ・ダルコウスキーをご存じですか?
今のメジャーリーグで最速と言えば、アロルディス・チャップマンか、トミー・ジョン手術のリハビリ中のカージナルスのジョーダン・ヒックスになると思います。チャップマンはレッズ時代に104mph(167.37kmh)をヒット。ジョーダン・ヒックスはMax 105.0mph(168.98kmh)をヒットしたことがありますね。
トレーニングやメカニクスなどの理論の発展と投手の体格など、過去最高のレベルに達している現代野球だからこそ、彼らは100mphを達成できている、そんなふうに思いたいところではあります。しかし、我々の知らない時代に、しかも蝶ネクタイでプレーしているような大昔の時代ではなく、ほんの少し前にとんでもない伝説を持つ投手がいたのです。
それがお亡くなりになったスティーブ・ダルコウスキーです。
How fast ! How wild !
スティーブ・ダルコウスキーは1939年6月3日生まれ。彼がプレーしていたのは1957年から1965年という年代。先にお伝えするべきこととしては、彼はメジャーのマウンドに上がることはありませんでした。
サンディー・コーファックスの世代
メジャー通の方なら、伝説の投手と言えばサチェル・ペイジを思い浮かべるかもしれません。時代背景とすれば、サチェル・ペイジやボブ・フェラーの後、そしてサンディー・コーファックスとはぴったり一致。ノーラン・ライアンはその後の世代です。年齢的には1935年生まれのサンディー・コーファックスの方が4才年上になります。
【伝説の投手達の時代】
- サチェル・ペイジ:1927−1966(59才で現役引退)
- MLBは1948-1965(40才でようやくメジャーへ。ジャッキー・ロビンソンがメジャーへの扉を開いたのが1947年。)
- ボブ・フェラー:1936-1956
- サンディー・コーファックス:1955−1966
- ノーラン・ライアン:1966-1993
スティーブ・ダルコウスキーはとにかく、速い!見たことがないほど速いボールを投げる投手。同時にとにかくワイルド!
ではどのような伝説があるかを見てみたいと思います。
これがスティーブ・ダルコウスキーの伝説
- ジェットエンジンがついたようなボールだった!
- ノーヒッター達成も、中身がひどすぎて敗れる
- 空気を切る音が、もはやシャツを引き裂く音
- キャッチャーミットを破壊。
- 相手ベンチ側に座って観戦していた子供が怖すぎて帰ってしまう
- 州レコード達成。24三振を2度。
- 捕手の手首を折ること数度。誰も受けたがらなかった。
- 【速度】当時は速度を図るレーダーガンがなかったが、110mph (177.02kmh)が出ていたとの見方も。
- 【速度】カル・リプケン・Sr(カル・リプケン・Jrのお父さん)がマイナーでダルコウスキーの球を受けたことがある。彼の実感で速度は120mph (193.121kmh)だった。
- 【速度】一説にはMax 125mph (201.168kmh)との声も!
- 映画『ブル・ダーラム』のティム・ロビンスが演じていた右腕は実はダルコフスキーがモデル。
- バックネットフェンスを破壊
- 投球が直撃したアンパイアーのマスクを破壊。アンパイアーは失神。
- ラバー・アームと称されるほど疲れ知らず
- 1ゲーム283球を投げたことがある
- 3日連続で100球登板
- 27奪三振、16BBの記録
- テッド・ウィリアムス曰く「こんな速いのを見たことがない!」
いかがでしょう。もしもVTRがあったら見てみたかったですよね。
実感から速度を推測するしかなかったのですが、ご覧の通りの伝説。
コントロールに苦しむ
そんな信じられない剛球を投げていたスティーブ・ダルコウスキーがメジャーに上がれなかった要因は一重にコントロールの悪さ。
- マイナー1年め:62.0イニングで121 SO、129 BB、ワイルピッチ39
- マイナー2年め:104.0イニングで203 SO、207 BB、ワイルピッチ29
- マイナー4年め:170.0イニングで262 SO、262 BB・・
1年めのSO9が17.6、BB9は18.7 ! 2年目のBB9に至っては20.4 !
マイナー通算で956.0イニングを投じ、奪三振 1,324、BB 1,236。完投38、シャットアウト12。
引退へ
ダルコウスキーが所属したクラブは以下のクラブです。
【ダルコウスキーが所属したクラブ】
- 1957-1964: オリオールズ・マイナー(当時のDレベルからAレベル。1963から現在のレベルの呼称となり、ダブルAとトリプルAを経験。
- 1964:パイレーツ→オリオールズ
- 1965:オリオールズ→エンゼルス
どうしてもダルコウスキーを見たかったテッド・ウィリアムズは上記の通り、「こんな速いボールは見たことがない」と驚き、相手チームにも関わらず彼を強く推し、1963年にダルコウスキーはオリオールズのメジャーのスプリングトレーニングに招待されます。6年のマイナーを経てようやくデビューへ!
しかし、オリオールズのロスターに入るも、肘が悲鳴を上げ、投げられないことに。2年後に復帰するも、メジャーのマウンドに上がることはありませんでした。
引退後
引退後はフルーツをもぎ取る仕事で生計を立てていました。そしてアルコール依存に。LAの街でホームレスになったこともあります。1992年に家族が救済。特に妹さんはよく面倒を見てあげていたようです。
そして今回、新型コロナウィルスに感染し、非常に数奇な運命をたどった生涯に別れを告げました。
普通のお兄ちゃんが常時100mph
写真を見てもおわかりの通り、普通のお兄ちゃんです。慎重も180cm。どちらかと言えば痩せ型。しかもメガネまでかけていて、とてもこの風貌の人がこんなすごいボールを投げるとは誰も思えないです。見た目とはそれほど当てにならないのですね。
とにかくトルク(回転数)がすごかったようです。
これは推測ではあるのですが、どうも手首が特徴的だったのではないかと思います。とても柔らかいとか。たとえば広島の伝説の津田さんは指が柔らかくてそのまま手の甲につきそうな勢いだったらしいです。後に血行障害になったのもそれが原因だったようです。あと、ダルコウスキーの場合は指先の皮がとんでもなく厚いとか。でないと指が潰れますよね。
伝説の投手のご冥福をお祈りしたいと思います。
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