2020オールスター開催地
2019年7月24日のお話ですが、ドジャースが2020オールスター開催に伴い、スタジアムをリノベーションすると発表しました。
まずはリノベーションのお話から。
その概要の動画がこちらです↓。
外野スタンド周囲をグルっと
球場周辺の広大な土地を利用し、外野スタンド周辺を後方をぐるっと囲むようにリテイル(各種ショップ)、キッズスペース、その他イベントスペースなどの関連パビリオンがズラッと並びます。
そして内野の各階層へラクラク行けるように1塁側と3塁側の外野側の端にエレベーターも設置する予定です。
CGを見ると、休日のアウトレットモールに行くようなイメージになりそうです。色々なパビリオンも、それが屋台っぽく見えてなかなか良いです。
外からバックスクリーンへとつながる風景は甲子園のそれとよく似ています。こういうのはワクワクしていいですね。
筆者は甲子園には何度も足を運んでいますが、ゲートから入ってバックスクリーン前の外野フェンスに到達するまでの時間が大好きで毎回ドキドキします。甲子園は改修前の方が雰囲気がありました。蔦ぼうぼうの外壁と黒ずんだコンクリート。それを照らす古びた丸いランプ。懐かしいです。
ドジャー・スタジアムの風景
筆者はLAではエンゼル・スタジアムに行ったことはあるのですが、ドジャースタジアムには行ったことがありません(日本時間2019年8月30日時点)。
知識として丘の上にあり、帰りは大渋滞するということは知っています(笑)。
よって映像による知識しかないのですが、概要が一番よくわかるのがこのドローンの動画かなと思います。
前から思っていたことは球場の内野の外壁を見上げる光景がないなと。
例えば、下記は旧ヤンキー・スタジアムですが、こういう感じに↓バックネット側の球場の外壁を地面から見上げる光景がないなと思っておりました。
ドジャー・スタジアムも写真を見ればどういう構造になっているかは一目瞭然ではあったのですが、それでも内野スタンドに外壁がないのが不思議で、内野のスタンド下は外光を採らないから通路暗いじゃないの?常に電気がついているんだろうなとか色々想像しておりました。
そして今回のリノベーションを機に色々調べてみました。
こうやって建設した
下の動画がどうやってドジャー・スタジアムが建設されたかがよくわかる動画です。ロスの歴史も含まれているので、建設方法だけをご覧になりたい場合は15:30にスライダーを動かして2−3分流してみてください。
アニメーションがよくできています。
山の頂きの木を伐採し、土砂を削り、何層もの台形状にして地盤を固めた後、ちょうど竹をスパッと切るような形で内野から外野にかけて斜め下に削っています。内野の外壁にコンクリートを流し込み、地盤との隙間をなくしています。
今回、ドジャー・スタジアムの建設方法を知るに当たり、さらに色々と情報が出てきました。
名前の由来とLA移転の理由
ドジャースの母体はニューヨークを本拠地にしていたブルックリン・ドジャースですね。
ちなみにどうして「ドジャース」となったか?についてはMLB通の方はご存じかと思うのですが、一応記載します。
ブルックリンは路面電車が走る街で、街の人はその路面電車を避けるように街を駆け抜けていたことからドジャースになりました。ドッジボールの「ドッジ」は英語で”dodge”。「避ける」という意味です。
ブルックリンドーム構想が決裂
さて、どうしてニューヨークから西海岸のロスに移ったかですが、ブルックリン・ドジャースのオーナー、ウォルター・オマリーが1950年代半ばにブルックリンにドーム球場を建設するプランを考え出しました。
これはあのバックミンスター・フラーがデザインし、形まで出来上がっていました。バックミンスター・フラーはこの時、ドーム球場推進のための会社まで立ち上げたはずです。
A Buckminster Fuller dome almost kept the Dodgers in Brooklyn
しかしブルックリンでの土地取得で市と折り合いがつかず決裂することに。
そんな時手を挙げたのがロサンゼルス市。土地を提供するということでオマリー氏と合意。オマリー氏はいい意味で相当腰が軽かった人だったのでしょう。ニューヨークからあっさりとロスに移転を決めました。この辺、ニューヨークへの執着がなかったところがすごいですね。
こうしてブルックリン・ドジャースが消滅し(1932-1957)、ロサンゼルス・ドジャース(1958-現在)となったのでした。
3年もの歳月をかけて建設
ドジャー・スタジアムの建設は1959年から1962年まで3年を要しました。
球場完成までドジャースがどこを本拠地にしていたかというと、ロス五輪が開かれたオリンピックスタジアム。例のLFが異常に狭い設定とならざるを得なかったスタジアムです。
最大収容人数は9万人。
土地取得まで
ロサンゼルスでの球場建設についてです。
後にドジャースタジアムの建設予定地となる場所は1950年初頭、複数の土地所有者や住人がおりました。
1949年に住宅法(Housing Act)が 設置されたのですが、これは第二次世界大戦の終戦にともない多数の戦争帰還兵が 帰国し、住宅不足が切実な問題として現れ、 各都市の都心部への人口集中による居住環境の悪化が問題となったためできた法律。
この法律を元にロサンゼルス市は後にドジャー・スタジアムとなるチャビス・ラビン渓谷を含めた一体を公共住宅や病院、学校、教会に建設に使うことを計画しました(エリシアンパークハイツプロジェクト)。
しかし、そのプロジェクトが建設される前の1953年、市長に当選したノリス・ポールソンはエリシアンパークハイツプロジェクトが社会主義の理想に関連付けられているとし計画を中止させました。当時は共産主義への危機感が非常に強かった時代背景もあります。これは前市長との色の違いを出すために反共思想も利用した面もあったようですが、とにかく壮大な構想はなくなりました。
その後、市は連邦住宅局からチャビス・ラビンの資産を大幅に割引いて購入し、土地を公共の目的に使用することを定めました。
1958年6月3日、ロサンゼルスの有権者が野球の誘致を住民投票で承認することに成功し、ドジャースは352エーカー(1.42 km2)のチャビス・ラビン渓谷を街から獲得できました。
チャビスラビンのトラブル
球場建設予定地のチャビス・ラビンは市のエリシアンパークハイツプロジェクトに関係なく、住んでいた住人がいました。スペイン語を話す人々です。中米からの移民の人々だったのでしょう。
開発者側とその住人が土地収用の費用に関しトラブルとなりました。開発者側の即立ち退きならある程度の現金を即金で支払うが、ごねるようなら買取費用は下げるというやり方が住人の心に火をつけたようです。
住人側の抵抗運動は激しさを増したのですが、結局強制も含めて立ち退きとなりました。
このようにして一筋縄ではいかない経緯をたどってドジャー・スタジアムの建設予定地は確保されました。
そして1959年から3年間、当時の金額で2,300万ドル、2018の価値で1億9,100万ドルをかけて建設されたのでした。
オープニングへ
そして、1962年オープニングを迎えました。ドジャースのブロードキャスター、ビン・スカリー氏が説明しているオープニング当時の動画です。
山を削るなんて結構な自然破壊だなと思いつつ、よく考えると筆者が学生時代に使っていた野球のグランドも山を削って整備した環境でありました。
欧米では自然に畏怖を感じ感謝を捧げることは、アニミズムでバカにされることが通例のようですが、せめて自然には感謝してもらいたいですね。
お読みいただき、ありがとうございました。
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